ピアニスト本田の軌跡

1968年 自己のリーダー・トリオ初結成萩原栄治郎(b)、 村上寛(ds)

1969年 トリオレコードと契約。初のリーダー作『本田竹彦の魅力』他、計8枚のリーダー作を発表。自己のトリオや武田和命カルテットを中心に活動していた本田が大きく注目を集め始める。
1973年 日本のトップ・コンボ、渡辺貞夫カルテットに参入、一躍名実共に日本のジャズシーンにおける若手ピアニストの中心的存在に躍り出る。以後1978年まで、多くの演奏活動とレコーディングを渡辺貞夫と共に行う。
1977年 ロン・カーター、トニー・ウィリアムズと競演した初のニューヨーク録音盤『アナザー・デパーチャー』『リーチング・フォー・ヘブン』を発表
1978年 増尾好秋、コーネル・デュプリ、アンソニー・ジャクソン、スティーブ・ジョーダン等とのニューヨーク録音盤『イッツ・グレート・アウト・サイド』を発表。
フュージョンコンボ"ネイティブ・サン"を結成し、アルバム『ネイティブ・サン』をビクターレコードより発売。和製フュージョンの記録的大ヒットとなる。メンバーは峰厚介、川端民生、村上寛、大出元信。
以後、『コースト・トゥ・コースト』(1980年)、『シャイニング』(1981年)、『リゾート』(1982年)、『ガンボ』(1984年)、『デイ・ブレイク』(1985年)、『ビアー』(1986年)などを次々にリリース。
1979年 『サバンナ・ホット・ライン』発表。スイスのモントルー・ジャズ・フェステイバルに出演。
1980年 アメリカでのライブ録音盤『コースト・トゥ・コースト』をリリース。
1981年 『シャイニング』リリース。
1982年 ビクターレコードからポリドールに移籍。バハマにて収録した『リゾート』をリリース。
1983年 『カーニバル』リリース。第17回スイス・モントルー・ジャズ・フェステイバルにおける峰厚介、村上寛、鈴木良雄とのカルテットによるライブ録音盤『スクウェア・ゲーム』をリリース。
1984年 『ガンボ』リリース。
1985年 ドラムスに実息の本田珠也を起用した『デイ・ブレイク』リリース。井野信義、森山威男と組んだトリオによるスタンダード曲集『マイ・ファニー・バレンタイン』『イン・ナ・センチメンタル・ムード』をCBSソニーよりリリース。
1986年 『ヴィアー』リリース。
1987年 『アグンチャ』リリース。このアルバムを最後に“ネイティブ・サン”解散。
1990年 ファンハウスへ移籍。鈴木良雄、日野元彦とのトリオ作品『バック・オン・マイ・フィンガーズ』をリリース。
1991年 同トリオによる2作目『アーシアン・エア』リリース。
1992年 初のソロ・アルバム『シー・オール・カインド』発表。3管編成によるセクテット“EASE”結成。メンバー峰厚介、植松孝夫、向井滋春、岡田勉、村上寛。
1993年 アルバム『EASE』リリース。日本ジャズ界のヘビー級バトルロイヤル・グループと賞され、スウイングジャーナル誌ゴールドディスク賞を受賞。
1995年 “本田竹広 JAZZ FUNK BAND”を結成。このバンドで本田は全編フェンダーローズを使用。日野元彦、ポール・ジャクソンとのトリオをベースに五十嵐一生、臼庭潤、今出宏をフィーチャーして、録音された『BOOGIE−BOGA−BOO』をリリース。 その後、脳内出血で倒れ闘病生活を余儀なくされるが、約2年のあいだ復帰を期してリハビリを続ける。
1997年 回復に向かっていたこの年の7月7日、2度目の脳内出血で倒れる。しかし、半年後の12月には『本田竹広ベストアルバム』(ファンハウス)のリリースライブで奇跡の復帰をとげる。
1998年 リハビリ中の本田を応援していた友人たちによって、3月3日「保谷こもれびホール」にて復帰コンサートを行う。以後、ライブハウス出演やツアーにと演奏活動を展開する。
1999年
『マイ・ファニー・バレンタイン』『イン・ナ・センチメンタル・ムード』ファンハウスからリリースされた『バック・オン・マイ・フィンガーズ』『アーシアン・エア』『シー・オール・カインド』『EASE』『BOOGIE−BOGA−BOO』の計7タイトルが復刻発売される。
長年考えていたWorld Music Band"The PURE"を結成。10月9日横浜ジャズプロムナードに初出演し好評を博す。以後毎年出演している。 この年本田は、「踊る楽器」と形容されるタップダンサー宇川彩子と共演する。翌年以降共演はライブハウスを中心に展開されている。
2000年 ビレッジレコードより米木康志、本田珠也を迎えたトリオによるアルバム『ナウ・オン・ザ・ブルース』をリリース。"国立音楽大学O.B.ジャズミュージシャンズクラブ"(K.O.J.M.C.)を自ら立ち上げ、母校出身のジャズミュージシャンの組織を結成する。K.O.J.M.C.は同年より毎年国立音大の芸術祭に出演。
2001年

3月2日、保谷こもれびホールのK.O.J.M.C.コンサートにて、念願の先輩山下洋輔とDUO。"ネイティブサン"の復活をとの声が挙がったが、川端民生のいない"ネイティブサン"は考えられないと、"アフリンバ"というサンバのバンドを、峰厚介、福村博、ダミオン等と結成。2月讀賣新聞夕刊に載る。

2002年

11月故郷の岩手県宮古市で開催された「第一回・宮古JAZZ祭」に日野皓正らと出演する。7月岩手日報、12月日刊ゲンダイ に掲載される。

2003年 3月20日、鎌倉円覚寺「白雲庵」で文楽の豊竹英大夫と“お彼岸ゑ”で夢の饗宴。月刊「清流」 5月号“ヒューマンドキュメント”に載る。8月31日、岩手県田老町で本田竹広プロデュースによる“鮭の国ジャズフェス 2003”を開催。山下洋輔やケイコ・リーなど有名ミュージシャンが多数参加する。7月15日、TBSテレビ人間ドキュメント「DASH DASH」に出演。
2004年

7月31日、紀尾井ホールリサイタルの成功を祈願して、本田竹広ファンクラブ(THFC)が発足、9月岩手教育会館大ホールにて、ネイティブサン "One Night Stand" が開催される。11月24日テイチクから『ふるさと -On My Mind-』をリリース。ライナーノーツには直木賞作家五木寛之氏が「ひとりのピアニストが後世に贈る貴重な音楽遺産である。命をよみがえらせる演奏。」と大絶賛している。マスコミ各社(スィングジャーナル、ジャズライフ、朝日新聞、産経新聞、日刊ゲンダイ、週間現代、サンデー毎日、週間文春、ラジオ番組)に取り上げられる。

2005年 1月NHK総合テレビ「こんにちは いっと6けん」に出演。
3月、5月とたて続けに事故で骨折をしてしまう。
が、7月31日体調不良ながら不屈の精神力で、紀尾井ホールにて、迫真のクラシック・リサイタルを敢行、好評を博す。12月にアルバム化、これが遺作となる。
 
2006年 1月12日、急性心不全で逝去。